実は月末でかなり忙しい(苦笑。
今日、明日のふんばりが年末の「ゆたかなくらし」に直結しているので、チチ揺れルエロいCGだろうがパチ屋のチラシだろうがさっさと仕上げなければならないのだが…「気になることは気になる!」ので、同時進行でブログも書く!絶対書く!誰がなんといっても書く!
#あ~…誰もなんにも云わねぇよ!
#ボーンじゃなく、ソフトボディでチチ揺らしたらすげかった(笑。
では本題。
10月19日のエントリ「カラダとチシキ」に関連。この記事にいくつかコメントをいただき、さらに考察を重ねている。特に大事なことは「科学信仰」とはなにか?ということ。それを読み解くには「科学」と「信仰」をまず、正体のはっきりしたものにしなければならない。(これはコメント欄でさつき氏に指摘されたことでもある)
通常、科学っぽい議論を繰り返しているので、何度か「科学とはなんだ」みたいな問いに答えてはきているけれど、ここでもう一編、考えてみるのは有意義だろう。
科学(science)とはなんだ?
コメント欄では「方法である」と述べた。あるいは「共通言語であるなどと。
私が「科学」と述べるとき、それはほぼ「自然科学」を指す、と云える。きっと、世の中のほとんどの文脈でも、同じことが云える。だけど科学には「社会科学」もあるし「人文科学」もある。そこで、例のごとくwikiを引用すると以下になる。
(広義)体系化された知識や経験の総称であり、自然科学、人文科学、社会科学の総称。
(狭義)科学的方法に基づく学術的な知識、学問。
(最狭義)自然科学。
なるほど「自然科学=科学」は最狭義になるらしい。
しかしあまり広義に話を進めても拡散するばかりでまとまらない。そこでここでは「科学的方法に基づく学術的な知識・学問」を科学としよう。すると、次に問題になるのは「科学的方法とはなんだ?」ということ、である。
科学的方法(scientific method )について
例のごとくwikiを利用させてもらう。wikiは便利だ。でもたまにおかしな記述もある。該当するソースはここ。
科学的な方法を用いて「なにを」論じるのか、それが問題である。つまり「科学的な方法の対象」とはなんだろう。
論じる対象を何らかの方法で定量化できるか/否か?
論じる対象を測定することが可能であるか/否か?
再現性がある、あるいは統計的に有意とされる証拠があるか/否か?
推論過程に整合性があるか/否か?
wikiにはこのように記されていた。
つまり、上記から「はみ出す」ようなものは科学的方法論の対象にならないか、なりづらい。たとえば「こころ」というのは定量化が不可能だろう。あるいは「痛み」とか「感動」とか「しあわせ」なんていう概念も、科学的方法論自然科学でどうにかできる相手ではなさそうである。そのほかにも「美しさ」とか「豊かさ」なんていう価値観は、なんだか定量化や測定ができそうでできない。私たちニンゲンが日常的に用いるさまざまな「価値」や「意味」はそもそも、科学的方法論とは相性が悪いようだ。
しかし、それでも科学的方法にもとづいて、あらゆるものを論じることは可能だ。特にそれが「自然科学」の範疇にないならば、別の場として議論を設ければ良いわけで、たとえば「こころ」を論じるにしても、大量の実験や論証が心理学のカテゴリーで行われている。
一般に、「論理的」といった場合には、以下に示すトゥールミンの三角ロジック(論理の三要素)を持っていることが要求される[17][18]。
- 「主張」
- 「根拠となる事実(証拠物件)」
- 「根拠となる事実から主張を演繹/帰納するための推論過程(論拠)」
科学的な論証においては、上記の3要素に関して、相応の適切さが求められ、それが適切であることが科学的な方法を特徴づけている。このいみにおいて、科学的な論証の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる[1]。
と、上記が科学的議論の場で求められる論証の条件。
まぁどんな議論についても、これらを満たさないようでは議論にならない。感想文のぶつけあいになってしまうだろう。
では、急ぎ足だけど次のパラグラフに移ろう。
信仰(faith)とはなんだ?
信仰(しんこう、英語 faith)とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること。(wikiより)
おお、簡潔だ。
とても簡潔な文章だけど、情報としてはかなり重要に思える。(少なくとも、私には)
たとえば『(自分が)愛されていることを確信し、見えない事実(確かに自分が愛されていたこと)を確認すること』なんて云う風に読み解けるのではないか。これは一見、レンアイ一般について述べているようだが、親子の間にも、ヒトと神の間にも成り立つだろう。
「宗教」という語が、組織や制度までも含めて指す包括的な語であるのに対し、「信仰」や「信心」は人(あるいは人々)の意識に焦点をあてた語である。
これも「なるほど」である。
おおもとの議論においても「科学は宗教である」とは誰も論じていない。別に組織だっていたり、制度めいたものではない、と(一般には)認識されているからだろう。しかし厳密には「学派、学閥」とか「学会」という組織や制度も関わっている。これら組織や制度の実情が少しも宗教的なものではないとしても、外部のヒトビトがこれを見るときには「宗教的(あるいは政治的)な対象」として認識したり、利用することは大いに考えられる。
さて、さらに次に進もう。
科学信仰とはなんだ?
要するに「信仰の対象が科学」なんだろ(笑。簡単すぎるね。
ここでNATROM氏によるソースを紹介しよう。「科学主義は、疑似科学と同じくらい有害だ」より。
科学主義とは、いってみれば「科学が真理に至る唯一の方法である。宗教なんて必要ねえや。科学マンセー」って立場。科学主義に立てば、神の非存在証明ですら、科学的な方法論で可能と考える。NATROMのサイトは科学主義の立場には立っていない。扱っている内容のために、科学主義であると誤解されやすいし、実際に誤解する人もいる。しかし、注意深い読者は、科学主義であると誤解されないように、NATROMが努力していることに気がついていると思う。
科学主義者は、進化生物学のような科学によって、キリスト教の価値を否定できると考える。「聖書の創世記は進化生物学とは相容れない。創世記の内容はデタラメだ。よって聖書もデタラメだ。キリスト教もデタラメだ」というわけだ。私はそのような立場はとらないし、多くの進化生物学者をはじめとする科学者も、そのような立場はとらないであろう。実際、キリスト教徒の科学者はたくさんいる。聖書は科学の教科書ではない。聖書の一解釈が科学と合わないからといって、聖書がデタラメだとは言えない。科学主義者は、科学以外の価値を認めないので、「聖書はデタラメだ。聖書には価値はない」と主張する。しかし、科学主義者以外の人にとっては価値があるかもしれないし、実際にきわめて価値があると考えている人たちがいる。
おお、分かりやすいね。
何年か前に私も読んでいたが、あらためて読ませてもらうとさらに興味深かった。「科学信仰」とか「科学を信仰する」という立場は、この「科学主義」に類似するか一致するだろう。
しかし、先のエントリでも(自戒を込めて)書いたことなのだが、私を含めたほぼすべてのひとは、その分野の真の専門家でもない限り、先端科学理論が示す自然の実態を「理解している」とは到底云いがたい。そこで、学術雑誌や学会での評価、世の中に紹介された成果としての技術や予測信憑性などを観察することにより「間接的に」理論の確からしさを検証した「気分」になることで、その学説なり理論を「信用する」という立場をとる。
しかし、より厳密な立場から「そんなん信仰でっしゃろ(by 某坊主)」と云われれば、ムっとはするが認めざるを得ないところがある…と、私は思っている。そう「宗教なんて必要ねぇや、科学マンセー!」という「強い科学主義」に対して「弱い科学主義」の立場は、科学の恩恵であるテクノロジーに支えられた文明社会に住む我々の「必然」ではなかろうか、と思うのだ。
だからこそ…
「科学は絶対に間違わない」などと科学主義者が言い始めたら、それはもはや、科学主義どころではなく、科学教だと言ってやればよい。 (同じくNATROM氏によるソースより)
などという風な最強無敵野郎に陥らないよう、十分な自戒と自己批判が必要なのだ、と私は考えている。
それでは、議論のまとめに入ってみよう。
見えざる事実に言及しないこと
たとえば「小麦粉進化論」という科学的主張(仮説)があったとしよう。これは、一応「科学の装い」を持っているが、根拠としているデータはでたらめ、間違いを指摘しても一向に訂正しない、さらには「科学は不確かなのだから、科学で批判してもこの理論の正しさ(真実)はいささかも揺るがない」などと、途方もない詭弁で返したとしよう。
とても厄介な主張であるが…実は、厄介なのは「主張そのもの」ではなく「その主張を支持する層」である。なぜなら、それほど明示的に「デタラメ」なデータを根拠にした理論であるなら、きちんと科学的方法論に基づき、理論を追試するなり、より信憑性の高い異なるデータを提出するなりすれば、理論としての整合性は脆くも崩れて信用を失い、却下されるだけだからだ。
しかし時に、こうした疑似科学への批判は「デタラメだからデタラメだ」というように、なにがどのようにデタラメなのかを明示せず、誰かがデタラメと云っていたのでデタラメなのだ、みたいな論調になってしまう。これはただのトートロジー(同義反復)であり、なんの情報も含まない。よって批判の体裁を持たないのである。
どんなにデタラメ風であろうと、仮説→論拠→推論の準備がなされているなら、それは「科学的主張」である。その主張が疑似科学に陥るのは、反論・反証への非応答や訂正の拒否、データの捏造や途方もない飛躍を含んだ解釈を「主張者が行う」ときであり、それは主張そのものではなく「状況」である、と云えるだろう。
このような「状況」に直面したとき、時に議論は混沌し、なにを批判しているのか分からなくなる。目的は「小麦粉進化論を反証すること」であるはずなのに、「NANは人語を解さない」と云う論調を呼ぶ。これはこれで仕方のないことだが、それはもはや疑似科学の批判ではなく、ケンカである。なぜならとりあえず「言語によって」主張は成されているのだから、人語を解さないというのは勝手な推測であり、見えざる事実だからだ。見えもしない事実に言及をはじめたとき、それは一種の「信仰」と化す。
疑似科学批判というカタチの「過干渉」も問題なのだが、比喩表現やメタファの乱用によって批判がただの想像(行き過ぎた思考実験)に摩り替わってしまうと、これはもうスタンドバーにおける愚痴と変わらなくなってしまう。そうなるともう、なにを論じてるのかも分からなくなるのだ。
最後に、すれ違いを紐解いてみるか…
さて、この議論は「水からの伝言」にまつわる論争・騒動をまたいで派生した周辺議論がおおもとにある。ただし、私は「水伝」にさほど関心がなく、水伝騒動となるともっと関心がない。だから、細かい事情など知らないし、その詳細について掘り下げる気力も時間もない。要するにそれは「NANのテリトリー」ではない、と認識している。
それならなぜ、ここで記事として「おおもとの議論」を取り上げるのか、というと…web上の知人・友人が関わる周辺議論としてならば、その中身に集中することができるので、ちょっと参加してみようかと「気まぐれ」を起こしただけのこと。なのでなんの必然性もないし正当性もない。ちょっと好奇心を持った、というだけである。「ちょっと好奇心を持った」という心象をさらに細かく述べると「う~ん、なんか違うな」と思ったのである。それらを明らかにするには具体的に引用していくほかにないので、以下、やってみようと思う。
取りあえず言いたい事は、「ニセ科学批判」は「科学ではないのに科学を装っているもの」を科学から見て批判することであり、ビリーバーの宗教的(主観的)バイアスは取りあえずここでは関係ない。
※ちょちょんまげ氏のエントリ「科学もまた信仰である?」より引用。
「疑似科学」とか「ニセ科学」とか「非科学」とか「境界科学」とか、「科学ではなさそうなもの」にもいろいろバリエーションがあって大変だな、と思う。また、それらを「科学的方法論をつかって」批判するのであれば、結論として得られるのは「確からしさの評価」であろう。まったくのデタラメ→少しも確かさがないものもあれば、かなり疑わしいがほんの少しは可能性があるものもある。
というか、「疑似科学批判」などという議論は実は幻に過ぎなくて、単に「科学的検証」があるだけなのだろう。この辺は最近になって私が思うようになったこと。
そこでおっしゃっている「上手な人」は運転技術に秀でているだけでなく、周囲の状況を把握することが旨かったり、交通の流れを読み取ったりすることが旨い人であるというご主張であり、おそらくはコミュニケーション上手もそういう人であるとおっしゃりたいのであろう。
それについて一般論として反対はしないものの、私としては決定的に運転技術に劣る人がもっと問題であると反論した。
このくだりは「おおもとの議論」の一方の論者である愚樵氏のエントリ「上手な人、下手な人」についてのもの。
ぶっちゃけ自動車の運転技術と疑似科学議論の比喩がけは、ちょっときつい気がする。結果的に「運転技術に劣るひと=疑似科学を信奉するひと」という価値観を招いてしまっているように見受けられるし、これを理解の断絶や切り捨てと見る向きが生まれることも仕方ないように思う。
また「決定的に運転技術に劣るひと」がもしも公道で自動車を運転したなら、確実に他者被害を引き起こすだろう。こうした議論をいきなり疑似科学信奉者に当てはめると、それはまるで「危険な存在」であることが自明であるかのように見える。だけどそれは想像に過ぎないし、事実とはまったく異なるかも知れない。単に「事実認識が間違っていること」が「劣っている」と読めてしまうことも、おかしな誤謬を含むように思える。
と、このような前フリを踏まえて…
-
- 人間A:信仰(一般的には主観)を一般化することには無理があると理解していること。→少なくとも運転が出来る人
- 人間B:信仰(一般的には主観)を一般化することに抵抗がない。→運転がおぼつかない人
という、さらに一段進んだ区分が成されるのだけど…
先に提示したように、信仰が「(お望みの)見えざる事実を確認すること」であるなら、それを共有しようとする試みが宗教ではないだろうか。主観といってもさまざまである。ある音楽に対する感動も主観だけど、これを共有しようとすることはできる。たいていの芸術は「価格設定」という方法で価値を一般化される。国家とは価値を一般化させるための装置だろうし、言語は主観を一般化するためのツールであろう。
つまり、比喩が適切ではないために、議論が拡散してしまい、なにを問題視しているのかが良く分からない。これだけだと「ニンゲンA」は優れていて、「ニンゲンB」は劣っていると評しているようにしか見えないのだ。無論、ちょちょんまげ氏も愚樵氏もそんなことは想定していないだろう。ゆえに、シメの部分も
そしてまた、ニセ科学や迷信を否定することに科学を持ち出してくることが「権威」によって否定することであるとお嫌いになるならば、愚樵さんはどのような理由で「水伝」をデタラメであると断じていらっしゃるのだろうか?
と、ちょっと行き過ぎた感じになるのではないだろうか。
なぜなら「科学を持ち出してくること」とあるけれど、具体的にどのような論証を「各個が」行ったのかについては触れられていない。比喩表現に終始している。そのうえで、ただ「科学で否定した」とあれば、それは権威的であろう。あるいは「象徴的」とも云えるのだろう。
権威も象徴も、中身が見えない。正体がよく分からない。つまり「お望みの見えない事実」なのではないか。あなた、もしくは私には「見えているもの」であっても、それが他者から見てぼやけているときには、信仰に見えるのは無理がない。私はそう思う。
なお、これらの議論は継続しているのであり、私の考察もこれで終わったわけではないことを最後に書いておこう。
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NAN縺輔s縺碁未騾」繧ィ繝ウ繝医Μ縲∫イ牙。オ辷?匱髮サ邯イ險俶? – 遘大ュヲ繧キ繝ウ繧ウ繝シ縲√〒縺疲欠鞫倥r縺ェ縺輔▲縺ヲ…
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