- 2010-05-27 (木) 21:36
- ノベル版966
シーン0:ケンジは傾いたベッドで目を覚ました。
朝…。
一年中閉ざしたままのカーテンから光が漏れ、部屋の一部を照らしている。
決して安物ではないカーテンの柄は黄色い花柄で、ところどころすすけていた。何年も前に去って行った女がそれをしつらえたのだが、女の名前はうろ覚えだ。確か、ミサエといっただろうか。
枕の横に手を伸ばし、惑星公社からのメールをモバイルで確認する。もちろん、着信はなかった。
「……」
恒温フォームの半流動熱源がへたり、クッションの役目を果たさなくなったせいで、ベッドの寝心地は常に、おそろしく悪かった。長く寝ていると、必ず腰痛になる。それでも、目を覚まして日常に戻るよりはベッドにいたほうがいい。
軽い偏頭痛を感じた。
仕事ができないほどのことではない。
むしろそういう痛みや不調があってこそ、自分が生きてることを僅かながら感じる。買ってから一度も洗濯していないシャツが壁にぶら下がっている。ケンジはそれを恨めしそうに眺め、やっとのことでベッドから起き上がった。
<さぁ、起きろ>
声には出さずにケンジは呟く。
そうでもしないと、なにをする気力も湧いてこない。このまま、この狭い部屋の中で枯れていく。それこそが自分に最も似合う生き方だと思うのだが、そんな惰性に埋没する勇気もないのだった。
壁にかかったままの白いシャツに袖を通す必要はない。ネクタイも、金色をした真鍮のボタンも必要ない。Tシャツに、ジーンズ。それで十分だった。シティの気候は穏やかで、完全にコントロールされている。
食品工場に行って、オートメーションで運ばれてくるクローン深海魚のすり身を固めたソーセージを仕上げるのが今の仕事で、完全に均一過ぎる製品に、ケンジは手で<ゆらぎ>を与える。それがどんな意味を成すのかは考えたことがない。とにかく、市場が求める個性とはそういうものらしかった。
「おはようございます、ケンジ」
GP03は型の旧い生活支援AIで、原隊に所属していた頃に支給され、そのまま私物になった。掃除や洗濯といった、日常的な作業とは無縁なケンジが最低限の清潔さを維持していれるのはGP03のおかげだった。
「トーストを食べますか?ケンジ」
年金の一部として支給される小麦粉やバターをストッカーに放り込んでおけば、主食はGP03が調合し、調理してくれる。古ぼけているとはいえ、独身の軍属が不便のないように用意されたコンパートメントなので、ここに住んでいる限り、ある程度の文化水準が維持されるのだ。
広大な工場のど真ん中に、青い合成繊維製の作業着を着たケンジの作業場がある。作業着には光触媒塗料が塗りたくられていて、埃や雑菌が付着しない。油圧で動作するダンパーや大型モーターの作動音と共に、ラジオ放送が聞こえてくる。DJの名前はMJといって、相当のベテランだ。
ケンジはマニピュレーターに手を差し込み、眼前に展開する立体映像を見ている。およそ30秒に一度のタイミングでラインから魚のすり身をペースト状にして固めたものが降りてきて、ケンジが手をこねる動作をすると、無数のホイストから伸びるロボットアームがその動作を少しずつタイミングや角度や力加減をずらしてトレースし、製品を仕上げていく。
寸分たがわず、まったく同じ形をしていたカマボコに似たソーセージの群れは、そうやって<個性>を与えられ、パッケージラインに去っていく。
人によっては、そんな無人の工場をさびしいと感じるだろう。あるいは、耐えられないほどの孤独感を味わうかも知れない。
だけど、ケンジはその数倍か数十倍、いや数百倍か数千倍にもなるだろう孤独感を知っていたし、それを辛いと感じたことはなかった。またそれは、キョウヅカフーズのフィッシュパティの評判を高めるという、プロ意識や企業への帰属意識ともかかわりのないものだった。
暗闇でも狩りができるという獣でさえ、そこではなにも見ることができない、本当の闇。連星系の月の裏側に位置する重力安定点に設置された狙撃用衛星の観測窓から見えるものは、少なくとも可視光線の範囲ではなにもない。
宇宙背景放射監視センサーから送られてくる僅かな変位を、有意なもの、無意味なものに支援AIが仕分け、有意と思われる変位があったときには、それが目標物による変位かどうかを判断する。それ以外の時間は、ただひたすら無為に過ぎていく。
それが、かつてケンジに課せられた任務だった。
たった一人で何千時間もの間、絶対零度の闇の中に潜む。そこにはなんの人間性も必要とされない。一種の<マシン>となり、ひたすら変化を待つことがすべてなのだった。
テクノロジーの進歩とは、基本的に自動化である。自動で追尾するミサイル、自動で迎撃する対空砲、自動操縦される戦車、航空機…やがて状況を認識し推論を行う戦術AIが生まれ、攻撃システムも迎撃システムも高度な自動化が施されると、それらを欺くためのステルス技術が発達し、またそれを見破るための監視システムが進歩するという堂々巡り。
やがて生物学的コンピューティングの台頭により、カオス・スタティクスシステムが構築されるに至ると、計算された混沌による都市型テロリズムや要人暗殺プログラムが蠢くようになり、さらにそれらを予測し防衛するための戦術AIが組み上げられ…という無限ループを見るに至り、最後には勘やインスピレーションというものさえ計算される始末を生んだ。
そして…人類は結局、ヒト脳が持つ<あいまいさ>や<気まぐれ>を補完してくれるはずの支援システムに絶望し、ヒトそのものを前線に送り込むことでしか、対処できない問題があることを痛感したのだった。
ケンジの部隊は、そうしたテロを予測するか、あるいは誘発させることを目的にした少数精鋭の部隊だった。
それは、超高度な隠密行動や諜報活動を通じて、要人を暗殺したり、敵中枢を破壊することを目的にした組織…だからこそ、隊員同士の人間関係というものは恐ろしいまでに希薄で、任務も単独行動が主体となる。
旧火星政府によって設立された特殊部隊、コードネーム<カノン69>は同様の敵部隊をことごとく粉砕し、劇的な成果を遂げた。ケンジはその部隊の忠実なパーツとして働き、いくつもの超・超距離狙撃を成功させた。絶対変調限界と呼ばれる、人間の精神が耐えられるであろう極限を、遥かに超えたところにある過酷な任務に耐えたケンジには、たとえ除隊しても永久保証される特別待遇さえ与えられた。
だが、あまりに劇的な成果は必ず反動を伴う。
部隊結成から2年後、まず最初に、部隊長に兆しが現れた。
彼は、最長144時間というサイバースペースへの異常な神経接続の継続を行い、神を見た、とメモを残して姿を消した。続いて、ケンジの直属の上司だったスパイク中尉が火星の衛星軌道上で謎の餓死を遂げ、やがて残る9人の隊員全員が監視対象になった。
火星国家保安局の監視対象にされてから3ヵ月後、隊員の一人だったコーテンが大事件を起こした。コーテンは地球の銀行システムに自らが開発した破壊ウイルスを注入し、預金システムそのものをバックアップまで含めて崩壊させた。いわゆるセキュリティホールを衝くというよりも、そのウイルスはセキュリティホールを穿つというタイプの<なりすまし>プログラムで、入念な準備と内部情報を保持していなければ作れない種類のものだった。
結果的に、コーテンは歴史上最大の大恐慌を引き起こした。損害額はまさに天文学的規模であり、無数の企業が倒産し、もっと数え切れない数の破産者を生み、自殺者が急増し内乱や暴動さえも引き起こした。
しかも、コーテンはそれを与えられた任務だと主張し、部隊の信用を完全に失墜させると、銀行システムを破壊したウイルスに惑星間特許を申請し、莫大な裏マネーを手に入れ、資金力をバックにアンダーグラウンドに潜伏してしまう。
特殊部隊カノン69にとっても、ケンジにとっても最後の任務、それは姿を消したコーテンを抹消することだった。
火星国家保安局と地球政府との共同作戦の形で、ケンジは地球に赴任した。フィラデルフィア、アムステルダム、そしてピョンヤン。コーテンの手がかりは点在していたが、どれも関連が希薄な、いわば無意味な座標上のポイントに見えた。
<これは、諜報部に対する挑発だな>
火星保安局も、地球の戦略情報局もそれを確信していた。しかし、ケンジだけは異論を唱えた。
「きっとこれは、本当に無意味な点です。コーテンの精神は完全に狂っていて、だからこそ完璧にランダムに行動しています。これらの形跡を追うことは恐らく無駄ですし、分析することも無意味です」
旧CIAとMI6局員からなる地球の組織はケンジの主張に露骨な嫌悪感を示した。しかし、中立姿勢を崩さない火星保安局はケンジを黙認し、思うがままに行動させる方針を保った。
やがて、極東の都市<センダイ・シティー>でケンジはコーテンを発見した。コーテンはそこで精神病院を買い取り、自ら入所していたのだ。少なくとも、ケンジがコーテンの所在を突き止めた時点で、コーテンの人格は消失していた。それを強度の自閉症と診断することは可能だったが、未曾有の経済危機を経験した地球当局はターゲットの身柄拘束を強く要求していた。
しかし…ケンジがコーテンの発見を報告してからきっちり60秒後、ステルス監視を続けていた火星保安局員が施設に強行突入した。そして、入所していた患者も職員もまとめて<消去>してしまった。
この処置に対し、火星保安局の強攻策は独断、かつ強引過ぎると地球当局が猛然と抗議すると、火星側はスケープゴートとしてケンジの身柄をあっさりと引き渡した。カノン69を追えるのはカノン69だけ。カノン69が消滅した時点で、ケンジの存在価値は消失していたのだ。
2万6785個という<日課>をこなすと、ケンジは就業時間を終えた。
ブザーやチャイムが鳴るわけではない。手元のカウンターが今日の予定が終わったことを表示するだけで、特になにも変わりはない。
軍属ではなくなった身の上だが、軍が所有するコンパートメントで暮らし、食品加工工場で働く毎日。雑踏を歩くと、なにかが見えることがある。なにが見えているのかは分からないのだが、とにかく何かがそこにある。仕事を終えるとケンジは目的もなく街を歩き、ふらつくことにしていた。
それは、火星宇宙軍に所属していた時代からの習慣で、いつの間にか身につき、離れなくなっていた。恐らく、それが余暇というものなのだ。任務を離れれば、なにか日常的でどうでもいいことに埋没する。そうすることで、精神を健全に保つことができる。
コンビニエンスストアではなくスーパーマーケットに行くのは、陳列棚がより大きいからだ。<スーパーマーケットは素晴らしい、美術館より素晴らしい>と、前時代の芸術家が云ったそうだが本当だ。思い思いのデザインを施したパッケージが並ぶシリアル食品のコーナーを眺めると、中身はほぼ同じものだというのに、なんと壮大なバリエーションが生まれるものか、と驚かされる。
「いらっしゃい」
ケンジの顔を覚えている店員が、フライドチキンを棚に並べながら挨拶をしてきた。チキンは、クローン鶏だが、味はいい。
「タイムサービスはまだですが、少しサービスしますよ」
店員は、エプロンのポケットからマジックを取り出すと、紙包装に値段を書き込み、自分のIDがついた紙片を貼り付けた。手渡された紙包みは暖かく、少し油がにじんでいる。
「ありがとう」
微笑み、ケンジは礼を云う。
こんな風に買い物を勧められて、断ったことがない。服でも、食品でも、本でも、薦められればすべてそれを買った。逆に、そうされないとなにを買えば良いのか分からなかった。
主食用の材料はGP03がすべて注文してあるので買う必要がない。軍属時代から浪費というものをしたことがないので、預金は十分にあった。その気になれば、多少の贅沢をしても問題ないだろう。
買い物は店内の至るところにあるセンサーがチェックしていて、形式だけのレジの前に進むとフローティングスクリーンに明細と金額が表示され、確認エリアにタッチすれば与信から引き落としになる。現金で決済したい場合は、前時代同様の手続きが必要になるが、係員が不在なことが多い。
その、形式だけのレジ手続きに戸惑う初老の女性がいて、出入り口付近が若干混雑していた。女性は明細に表示される商品と、自分が購入した商品が違うと云っているようだった。
こんな風に、日常にはちょっとしたバリエーションがある。だいたいまったく同じなのだが、ほんの小さな領域では、意外なほど変化がある。ミクロとマクロの問題だ。ケンジにはマクロが見えない。見ようとしない。
ようやくレジに進んだケンジの隣に、男が並んだ。
男は微笑み、ケンジに会釈をする。
「ケンジさん、ですよね?」
男の顔はバイオ整形で得た平均顔で、ひどく整っている。整いすぎているので、のっぺらぼうに見えるほどだ。そういう顔をした人間たちを、ケンジは良く知っていた。男は間違いなく情報局サイドの人間だ。
「惑星公社の人かい?」
否定することなく、ケンジは聞き返した。
男は、口の端で小さく微笑む。その微笑は冷たく、爬虫類を見ているようだ。
「惑星公社は私のクライアントでしてね。困難なミッションに対して、最適な人材をスカウトするのが私の仕事なんです」
「困難なミッション…最適な人材…」
ケンジが呟く。
「ときめくでしょう?ふふ」
確かに、ケンジは毎朝惑星公社からメールが来ないかと心待ちにしている。軍属を抹消され、今は惑星公社の登録要因として一種の予備役に甘んじている身だ。ケンジが待ち望んだシチュエーションが目の前にある。
「戸惑ってます?戸惑ってますよねケンジさん。まぁ、理解できる反応です。でも、戸惑っている場合ですか?今…」
「……」
フライドチキンを勧められて断る理由がないように、トカゲ顔の男の誘いを断る理由もなにもない。
「どんな…ミッションなんだい?」
ケンジは再び聞いた。
「欲しいのは、イエスかノーなんですけどね。まぁ、いいですよ」
男は古風なカードを胸のポケットから差し出した。名刺である。
「エリノール機関?聞いたことがない」
男の名刺によると、名前はカクワネ。本名ではなさそうだ。
「聞いたこと、ないですよね。無理もない。なにしろ発足してから6週間ですから、さすがのケンジさんでもご存知なくて不思議はありません。さて、話すと長くならざるを得ません。場所を変えませんか?」
確かに。ケンジは頷いた。
なにもスーパーマーケットのエントラントで話の詳細を聞きだす必要はない。男の案内でパーキングに出ると、そこにはルノー製ランナバウトが待機していた。ランナバウトは水陸両用で、タイヤ部分を収納して輸送機に積載することを想定した万能車両だ。都市部でそれを見ることは滅多にないが、金持ちが道楽で転がしていることがある。
「話の前に…それ、実は気になっていたんですけどおいしそうですね」
車には運転手がいた。助手席にも、もう一人。カクワネはケンジの買い物袋を指差している。
「3本入っている」
ケンジはそう云った。
運転手と助手席の男にもチキンをやると、ひとつ足りない。
「そこの二人を数える必要はありませんよ、ケンジさん」
カクワネが微笑む。やはり爬虫類だ。いや、両生類かも知れない。無表情に見えるが、食欲はそうとうなものだ。今にも長い舌をびゅんと伸ばして、チキンを絡み取りそうに見える。
「じゃぁ、食えよ」
チキンを手渡すと、文字通りむしゃむしゃとカクワネが平らげる。骨まで食べるのかと思ったのだが、さすがにそれはなかった。
「もうひとつ、食うか?」
ケンジが云うと、カクワネの表情が変わった。
「やってもいいが、ひとつ正直に答えてくれ」
チキンの袋を差し出すかに見せて、ケンジはそれを引っ込める。カクワネはついに怒りの表情を見せるが、すぐに平静を装う。
「正直?私はさきほどから嘘は云っていませんが」
今にもよだれを垂らしそうな顔になったカクワネは、手をこねるようにじれている。
「エリノール機関のエリノールってのは、あんたのことじゃないのか?」
「…わ、私はただのカクワネですよ…」
あからさまにうろたえるカクワネに、ケンジは続ける。
「エリノール機関というのは確かに初耳なんだが、エリノアだかなんだかっていう諜報員のことは聞いたことがある。確か木星周辺をテリトリーにしていたはずだ」
「ふん…さすがは特殊部隊カノン69の生き残り…ですね」
今度は明らかに楽しそうな笑顔を見せ、カクワネは自分の頭を撫で回す。すると、ワックスで固めていたらしい髪が、激しく踊り始める。
「髪質がですね…生まれつきこんななのですよ」
「アフロ…か。最近は流行していないそうじゃないか」
「流行とか、関係ないんです!」
短く叫ぶと、カクワネはケンジの手からフライドチキンの紙包みをもぎ取り、むさぼりつく。
「この匂いだけは…この匂いだけは…たまらない…たまらないんです!」
結局、チキンは3本ともカクワネの胃袋に消えた。
「なにはともあれ…ケンジさん。信用してください。エリノール機関は実在しますし、設立してから日が浅いので活動実態がないのです。カクワネというのは私のコードネームのひとつで、エリノアもエリノールもそのバリエーションに過ぎません。本名というものになんの意味もないことくらい、ケンジさんもご存知でしょう」
ああ、分かったよ。ケンジは頷く。
やがて、ルノー製ランナバウトはある建物のエントランスにたどり着いた。
「ここは?」
「我がエリノール機関の地球支部…もともとは木星開発機構が入居していたビルです。もっとも、所有者は地球の国連ですけどね」
外見上は普通の雑居ビルにしか見えない。下の階層にはレストランやバーが入居し、美容室や銀行も入っているようだ。
「それでは、ブリーフィングを開始しましょう…っと、その前に、本ミッションのクライアントをご紹介しておかなければなりませんね」
カクワネ・エリノールがそう云い、オフィスの奥から一人の男が姿を現した。
男の顔は、ケンジにとって忘れたくても忘れられない顔だった。
つづく
- Newer: 【SDGO】正式サービス開始!
- Older: 【ゲーム開発】ノベル版966Universe #1-01
Comments:0
Trackbacks:0
- Trackback URL for this entry
- http://www.avgas-bb.com/wp/wp-trackback.php?p=643
- Listed below are links to weblogs that reference
- 【ゲーム開発】ノベル版966Universe #1-02 from 粉塵爆発電網記憶
